偏見

偏見がないということは、偏見が沢山ある人でも受け入れられることです。ただし、偏見がないということは自分の意見を持たないということではありません。あなたならどう思う?と聞かれた時に共感を求めるのではなく、きちんと自分の意見をはっきりと言う。その後相手の意見も聞き、自分の意見と反対でも真っ向から否定するのではなく、そういう意見もあるんだと一度自分の中に引き入れ話し合えることが必要であると思います。言わば人とディスカッションする能力がとても大切だと思います。


そんな中、「わたしは偏見がない人間だ」と公に話す人程間違えて捉えていることが多い。実際自称する人が発言をすることに対し自分に悪意ないと感じ、無意識的に差別していることがある。例えば「わたしは中国人に対して偏見がないから仲良くできる」と言えば人種差別と感じる人はいる。あなたが好きだから仲良くしたい、ではなく中国人だけどわたしは差別しないから仲良くできるとも捉えられる。こうした発言に本人は悪意がなくても、あなたは〜だけどと相手の特徴を取り出して言うことで傲慢さを感じてしまう。


もっと言うと「どんな男の人がタイプ?」「彼氏いるの?」と聞くだけで相手の性的マイノリティを限定し、自分の価値観だけで質問していることになる。様々なセクシャリティがあるということを認識しておらず無知なまま無意識的に差別化しているのである。

また、現代の若者はこれだから…ということも差別になりうるし、女性の方が男性よりも優秀だから女性差別なんてしませんよ!と言ってしまう社会も差別発言であり、無意識にしてしまうことからみんな鈍感なのだ。LGBTでもみんなと同じ人間だから平等の扱いをしましょうなんて、それこそストレートに差別化してしまっている。

そして差別発言で批判を喰らえば「わたしには偏見がないのだけど誤解を招く発言してしまった」と言うのはおかしい。


自分は同性愛者であるとカミングアウトした時、わたしにも同性愛者の知り合いいるから理解できるよ!と返されたらカミングアウトした当事者はどう感じるか。もちろんそれを聞いて安心したと思う人もいるだろう。だが、同性愛者の知り合いがいるからと言って理解できるとは何事か?簡単に理解できるよと言われ納得できない人だっているはずだ。性を尊重できる知り合いがいるというのは事実だけであり、なにも理解と結びつかないのだ。


相手の意見を全否定したり、受け入れられないことを嫌悪したり拒否するのだけが偏見ではない。個人の特徴を取りだして主張してしまうこと、それが身近にあり無意識に差別化してしまっていることを想像していく必要性がある。

だが偏見を持たないというのはとても難しい。まず世の中全ての偏見がない人など存在しない。そして偏見がない人にどうやったらなれるのかと意識し過ぎてしまうとまず自分の中でレッテルを探す行動をしてしまうので反対に作用してしまう。


偏見をなくそうと意識を向けるだけでは厳しい。

だけどわたしたちができることは自分たちが無知であることを自覚することだ。性別、人種、年齢、特徴、障害、見た目、などを自分の価値観で当てはめるのではなく、自分の周りの人々や認識を置いてその個人を自分が無知であることを意識して目の前の個人とコミュニケーションする。その人を尊重し決して比べない。話を聞いている最中にこういう人いるよね、とかあの人みたいだ、とか頭の中で思い出すこともあるだろうが、そこは自分の認識を置いてその個人と向き合ってみる。同性愛者だから、外国人だから、女性だから、とラベルを貼るのではなく「あなただから」と考えて欲しい。


だがあまりにも偏見に対して意識を向け、気を使ってしまうと自分が話せることが限られてしまう。自分の意見を持たず相手の意見を聞き入れることだけが正解ではない。むしろそうしてしまうとで相手の偏見を受け入れてしまうことにもなり得る。

今わたしたちにできることは自分の価値観の中にあるレッテルで分類するのではなく、一個人に対して無知であることを自覚しコミュニケーションすることが大切だと思う。