幸せのなかの寂しさ

寝なくてはと思うほど寝れない夜に、どうにもできないもやもやが、だんだんと苦しくなってきて涙が止まらなくなる。死ぬほどではないのだけど、死んでしまいたくなるような孤独感に苛まれて、ただただ泣き止むのを待つことしかできない。自分自身を宥めてるが、その場しのぎすらなっているのかわからない。どうしたらいいのかわからない。

期待されることが怖い。「死ぬかもしれない」と思われてると、死ななかった時やっぱ死ななかったかて思われるかもしれなくて怖い。「絶対に生きてて欲しい」と言われると、生きて何かしなきゃいけないという気持ちで焦るし、死ねなかった時は自分だけが自己嫌悪に落ちそうで怖い。何も考えず、もし生きてたら〜ともおもわず、ただただ当たり前のように生きてることを想定して、いつかあそこに行こうよとか言ってくれるほうが今のわたしにとっては心地いい気がする。わたしにとって生きてることが当たり前になって欲しい。


自分が不良品だということに気づくまで時間がかかった。でもそう感じるのはふとした瞬間で、周りの人は自分を当たり前のように同じ人として尊重してくれる。だから生きててもいいのかなと錯覚してしまう。この先生きてて見返りを望まれても何もできる気がしない。なにかしなきゃいけないとか期待とか持たれると出来そうになくて怖くて怖くて堪らなくなる。

上手く生きれたらなあと毎日思う。死んじゃおっかという気持ちになれるくらい全て消えてしまえば…。みんな温かさは表だけで、一瞬を過ぎてしまえば全て他人事になってしまうような気がする。特に大人になれば見向きもされない。そんな世の中で不良品のわたしがどうやって生きていけば、生きてることが当たり前で素晴らしいと感じられるようになるのか、ずっと分からない気がする。

時々日差しが差し込むけどそれは全体的に見えば僅かであり、自然光ではなく人工的なものであるというか、気まぐれのようでしかなく希望と呼べるまでほど遠い。そんな中で生きてる毎日のことを、ひとりきりの世界の中で悩み続け生きていくのはとてもつらい。

 

それでも今わたしはきっと幸せです。ひとりではないです。だけどどこかでずっと孤独感があり悲しい気持ちになります。幸せで満たされているようでどこか悲しい。見知らぬ土地でひとりで過ごす時間はとても寂しく不安なものです。だけど毎日生きて洗濯して、掃除をして、頑張っています。こんなわたしでも、なんとか生きていけてます。

散文化した代わり映えのない日々だけど、好きな人と生活できることはとても温かいです。今でもこの暮らしが夢のような気がしています。

真夜中に、わたしには誰もいないような気がして夢から覚めた時、隣に彼がいてくれた時の安心感は計り知れないものです。


寂しさの中にわたしは自分が尊重されなくなることが怖さがあります。2人がお互い好きで一生をかけてよりそっていたいからか結婚するはずなのに、いつからか子どもの方が優先になってしまうのでしょうか。そんな現実があることを知ってしまうと苦しくなります。わたしは今でもずっと自分を一番に愛されて一番に大切にされたいと願います。自分の化身が生まれたとしてもです。どうしてだかわからないけど、どうしてもなんです。そうでなくては自分が生きていける気がしません。そんなこと考えてると、あの時なんでわたしの親は抱きしめてくれなかったんだろう、抱きしめて欲しかっただけなのになんで叩かれてしまったんだろうとふと思いました。もっとお母さんに甘えたかったな、褒められたかったな、どんな自分でも生きてて欲しいって言って欲しかったな、なんて、今更思ってもきりがないのだけど。

 

いつも考えすぎて苦しくなってしまうので、鬱で困らせてしまうのではないかとか、やらなきゃいけないという義務感に追われてて、自分で勝手に追い詰めてしまいます。「そんな時やる気のない時は何もしなくていいよ」「寝ててもいいよ」「掃除してくれてありがとうね」と言ってくれる彼のお陰で何故か余計頑張れます。そしてどこかでほんとに何もしない日が続けばわたしは見捨てられるという不安に駆られています。

だけど、最近は自分の存在価値がないとか、将来はもう諦めて来世に祈ろうなんて考えをやめるようになりました。そんな考えをする人と付き合う相手が可哀想でしょう。だけど自分を大切にすることも、誰かに大切にされてるんだと感じることもとても難しいです。自分を甘やかしたいけど、人の顔色を伺うことしかできません。だけどわたしは自身を尊重できるようになりたい。自分のことを守れないなら誰かに守ってもらいたい。


わたしは誰の代わりにもならないし、誰かと比べることもできません。どんな理由があろうともわたしは大切に大切にされる女の子でありたいと願います。自分を大切にするとは自分の意思を尊重するということではありません。自分だけが幸せになって終わるのではなく、その幸せを称えてくれる周りの存在を得るのです。そしていつか生きてて良かったと心から思いたい。とても難しい課題です。

 

偏見

偏見がないということは、偏見が沢山ある人でも受け入れられることです。ただし、偏見がないということは自分の意見を持たないということではありません。あなたならどう思う?と聞かれた時に共感を求めるのではなく、きちんと自分の意見をはっきりと言う。その後相手の意見も聞き、自分の意見と反対でも真っ向から否定するのではなく、そういう意見もあるんだと一度自分の中に引き入れ話し合えることが必要であると思います。言わば人とディスカッションする能力がとても大切だと思います。


そんな中、「わたしは偏見がない人間だ」と公に話す人程間違えて捉えていることが多い。実際自称する人が発言をすることに対し自分に悪意ないと感じ、無意識的に差別していることがある。例えば「わたしは中国人に対して偏見がないから仲良くできる」と言えば人種差別と感じる人はいる。あなたが好きだから仲良くしたい、ではなく中国人だけどわたしは差別しないから仲良くできるとも捉えられる。こうした発言に本人は悪意がなくても、あなたは〜だけどと相手の特徴を取り出して言うことで傲慢さを感じてしまう。


もっと言うと「どんな男の人がタイプ?」「彼氏いるの?」と聞くだけで相手の性的マイノリティを限定し、自分の価値観だけで質問していることになる。様々なセクシャリティがあるということを認識しておらず無知なまま無意識的に差別化しているのである。

また、現代の若者はこれだから…ということも差別になりうるし、女性の方が男性よりも優秀だから女性差別なんてしませんよ!と言ってしまう社会も差別発言であり、無意識にしてしまうことからみんな鈍感なのだ。LGBTでもみんなと同じ人間だから平等の扱いをしましょうなんて、それこそストレートに差別化してしまっている。

そして差別発言で批判を喰らえば「わたしには偏見がないのだけど誤解を招く発言してしまった」と言うのはおかしい。


自分は同性愛者であるとカミングアウトした時、わたしにも同性愛者の知り合いいるから理解できるよ!と返されたらカミングアウトした当事者はどう感じるか。もちろんそれを聞いて安心したと思う人もいるだろう。だが、同性愛者の知り合いがいるからと言って理解できるとは何事か?簡単に理解できるよと言われ納得できない人だっているはずだ。性を尊重できる知り合いがいるというのは事実だけであり、なにも理解と結びつかないのだ。


相手の意見を全否定したり、受け入れられないことを嫌悪したり拒否するのだけが偏見ではない。個人の特徴を取りだして主張してしまうこと、それが身近にあり無意識に差別化してしまっていることを想像していく必要性がある。

だが偏見を持たないというのはとても難しい。まず世の中全ての偏見がない人など存在しない。そして偏見がない人にどうやったらなれるのかと意識し過ぎてしまうとまず自分の中でレッテルを探す行動をしてしまうので反対に作用してしまう。


偏見をなくそうと意識を向けるだけでは厳しい。

だけどわたしたちができることは自分たちが無知であることを自覚することだ。性別、人種、年齢、特徴、障害、見た目、などを自分の価値観で当てはめるのではなく、自分の周りの人々や認識を置いてその個人を自分が無知であることを意識して目の前の個人とコミュニケーションする。その人を尊重し決して比べない。話を聞いている最中にこういう人いるよね、とかあの人みたいだ、とか頭の中で思い出すこともあるだろうが、そこは自分の認識を置いてその個人と向き合ってみる。同性愛者だから、外国人だから、女性だから、とラベルを貼るのではなく「あなただから」と考えて欲しい。


だがあまりにも偏見に対して意識を向け、気を使ってしまうと自分が話せることが限られてしまう。自分の意見を持たず相手の意見を聞き入れることだけが正解ではない。むしろそうしてしまうとで相手の偏見を受け入れてしまうことにもなり得る。

今わたしたちにできることは自分の価値観の中にあるレッテルで分類するのではなく、一個人に対して無知であることを自覚しコミュニケーションすることが大切だと思う。

 

生きたいけど苦しいなら死にたい

 

最近はずっと良いところだけを見て生きてた。そうじゃなければ生きていける気がしなかった。もう辛い想いをしたくない、その想いがとてもとても強くて苦しい。今生きてる時は、いい想いだけを残して過ごしたい。空を見てるのか家の中を見てるのかわからないくらい現実に存在してる感覚がなく、夢なのか夢じゃないのかもよくわからない。これからの未来、生きていくことも怖いし死ぬことも怖い。死んだらどうなるのかわからなくて怖い。この間死ぬ直前の夢を見た。とても早いスピードで走ってる電車の車輪に巻き込まれる瞬間の夢だった。巻き込まれる直前の早く回る車輪に吸い込まれるように近づいていく動作が、ゆっくりと描写されていて、鮮明に覚えててとても怖かった。死にたくない!、このまま死んだらどうなるのだろう?記憶はあるのかな?目覚めたら何処にいるのかな、痛くないかな、巻き込まれる瞬間に記憶を失うだろうから感覚はないかな、生きて現実世界で目覚めたい、そう強く思った。車輪に巻き込まれる瞬間に真っ暗になり、死にたくない!死にたくない!って思って目が覚めた。目が覚めてすぐ生きてて良かったと率直に思った。やっぱり死ぬことは怖い。死ぬときに後悔するのかもしれないのが怖い。だけど死ねなかったことを責める日々も怖い。怖いことだらけ、不安しかない。


きっと、きっとなんて言ったら失礼だけど、わたしは幸せだったんだ。全てわたしが壊してしまってきた。その幸せを感じ取れずに不満ばかり、他者に自分の悪事を押し付けて甘えてた。それなのにぱぱとままは見捨てなかった。だけどわたしは家を出た。わがままを言って迷惑をかけた上に逃げてしまった。それなのに、生きることを楽にしたくて逃げたのに、また不満を募らせ閉鎖的になってしまった。結果嘘でしかないように思えてしまい、話せる人が誰一人ともいなく、孤独感で閉鎖的な暮らしになってしまった。嘘だけでも暴きたくて真実を知りたいけど、そんなことしたら今の生活が崩れてしまう。生きづらい。もし死ぬなら、今だけ良いところだけを見て楽しく生きたいと願う。嘘ありきでも、楽しい思いだけを最後に残していきたい。生きてて良かったなんて思える人生を想像することが全くできない。でもあの時死ななくても良かったのかな、なんて思えればそれだけでオーケーだと思う。


我慢している時は自分の存在を消していっているような気がしてしんどい。でも今耐えればもっと嫌な気持ちになることもない。事実を知らないことで救われてることもあるかもしれない。だから、生きてる間は深いことは関わらず表面的にでもキラキラしてたい。話せる人もいないし言いたいことも言えないなら、話さない言わないでいい。相手にどう思われるのかとかどう言われてしまうのか考えるのがしんどい。他人が相手に自身のことをさらけ出してまでわたしを肯定する人はいない。生きてることが素晴らしい。若いって素晴らしい。そんなことなかった。あなたはなんでもできる、何にでもなれる。でもなれなかった。わたしの中でどうにかしてやろうという気力が全くと言っていい程ない。疲れてしまったんだろうか。死んでしまう以外方法がわからない。今こうやって息をしてることも夢なのか現実なのかわからない変な感覚に陥ってしまう。こんなはずじゃなかったと、それすらも言えないような悲しさがわたしにはたくさんあって何が正しくて間違ってたのかも分からない。でも聞いたところで他人には全て否定されてしまうのは、自分自身の弱さを傷つけられているような気がするので嫌だ。


フラッシュバックが鮮明でつらい。毎日夜寝付けないし、何度も起きては寝れないの繰り返しでつらい。ふとした時に泣いてしまうのがつらい。自分を責めることしかできなくてつらい。生きる目的や希望がなくてつらい。太るのが怖いのに食べないと落ち着かなくて食べてしまうのがつらい。ただ目を閉じて何も考えないようにしてるのに頭がごちゃごちゃして歯を食いしばって耐えるのがつらい。

大人になりたくない。大人と言われたくない。大人と同じにされたくない。

明るくなりたい。ずっと笑顔で愛嬌あってきちんと返事して、素直な女の子になりたい。

努力すればいいのにそう簡単なことではなくて難しい。ただ死んでしまえばわたしの中だけは全て解決するんだ。

塾の先生へ

 

 

わたしが久しぶりに先生に会いにいくといつも死んでしまったんじゃないかと思った、と言われるのが嬉しかった。死にたいとか言ってどうせ死なないんだと思われるより、生きてることがいつも不確かであると思われてることが嬉しかった。なんとなくそれが心地よかった。

先生はまだ生きてる?また電車で目の前に座ってたら面白いのにな〜と思ったりしてます。

わたしは幸せを感じることがあったけど、死にたい気持ちは消えなかった。むしろ幸せなまま、もう将来に出会うであろう辛いことを無くしたくて死にたいと思った。生きてて幸せだった、もうちょっとだけ生きようと頑張れて良かった。そう思いたい。成人することが堪らなく怖い。他人が納得いくような回答ができないけど、とにかく怖くて怖くて子供のままでなきゃいけないという気持ちが強い。親のことが大好きで、過去に何をされたとしてもごめんねの一言で許せた。もうこれでいいのかな、と思います。

 

先生の為に書いたあざらしのイラスト、まだ持ってる??捨ててない?死ぬまで持っとくって言ってたの忘れてないからね。

唯心論

 

唯心論という意味を知っていますか。哲学の話になりますが、デカルトという人物を1度は聞いたことはあると思います。そのデカルトは、物心二元論という精神(心)と物体(身体)を切り離し、独立した2つの実体として精神と物体を分けた考え方をしました。そして、物体は人間の意思や精神とは切り離されており物理的な結果→反作用の中で運動するため、精神が認識の範囲で成り立つ限り、人間の身体もただの物体にすぎないとも考えました。(心身二元論)

簡単にまとめると、このデカルトは精神と物体は全くの別物!と主張したのです。


そして精神とは人間とは何が確実だと証言でき、誰に何を反論されても疑えない確実な原理を探し求めたのです。

とにかく疑って疑って「この世で本当に正しいと自分が言えるものは何か」を追求しました。


わたしたちが見ている物、実際にあると思っている物はそのように見えているだけでこの世に存在しているのだろうか。この世ってなんだ?もしかして、わたしたちが精神的に作り出したものではないか。

ここにりんごがある。わたしは赤いと思う。他者にも赤いりんごが見えてる。だが他者に見えてるりんごはわたしが見ているりんごと同じ物なのか?自分が持っている概念を捨てて考える。自分が思う赤色と他者が思う赤色、もしかしたら違うかもしれない。自分が思うりんごの形も他者には違う形で見えているとも考えれる。つまり元々の認識の仕方が違うということだ。


私が見ている世界は私自身(精神)が作り出したものかもしれない。


ここでデカルトは「どんなに疑ってみても疑いのないものは疑ってるという自己。」という結論を出したのです。この世に誰にとっても公平に確実だと言い張れるものは無いけど、今全てを虚構と考え疑っている自分は必然的に存在していると。


そして、

「われわれは世界が実在すると思っているが、 ほんとうに存在するのは神様が作った観念だけで、 われわれはほんとうはそうした観念を知覚だけである」 と論じたバークリという哲学者がいます。


唯心論の対立的な言葉として唯物論という言葉があります。唯物論は存在の根拠を自然に見出してると考えます。ここに本という物体があるからわたしは本が見えている、ということです。物体が自然に実体化しているから目の前で認識できている、他者も同じように認識できていると思うのです。

唯心論は唯物論の物体という考えを精神に変えて考えるのです。ここに本という精神でわたしが作り出した物が見えている、ということです。精神で実質的に創り出されたものをわたしは認識しているのです。物質的なものはその現象ないし仮象と見なします。(形而上学)


簡単にまとめると、「世界の本質は何か」を考えた時に、全ての根源を自己の精神と考えるのです。大雑把に言うと、この世界はわたしがわたしの精神で作り出したものだ!ということです。なので、他者というのも自己の精神で作り出されたものということになります。極論を言うと、自己の精神だけが存在している世界であり、自己以外の物質(他者や物体)は自己の思考で創り出し、見えているものを認識しているということです。

 

 

わたしは幼い頃から唯心論的な考えをしていました。この世界にわたしの認識の範囲以外で物理的に存在しているものはない。わたしの精神があることで周りの人々や場所が動き、存在しているのです。反対に、わたしの認識の捉える範囲以外では何もかもが存在しない世界、消えているものだと思っていました。そして精神を握っている創造者がどこかに実在する。創造者を神と定義する人は多いですね。わたしは「絶対的な何か」と考え、その絶対的な何かが精神を司りわたしの思考だけがこの世(箱)の中で存在していると考えるのです。

 


「すべての物質的な存在を、神の心の中の産物として位置づけることができるならば、物質といういまいましいものにこだわる必要はなくなる。」こうバークリーは言いました。

つまりこの世に実在するのは心の中の世界だけなのです。個人が寝ていたり観念していない時は外界の物質は存在していないという事になるのです。

 

 

 

 

わたしはまだ哲学を深く学べていません。ですが、幼い頃からずっと不思議に思っていた考えを哲学を通して唯心論的な考えをしているということを知りました。唯物論的な考え方ができず、自分の存在が怖くなったこともあります。わたしが独我論の考えには至らなかったのは、小学生に上がるか上がらないかくらいの時から、神様がこの世界で普通の女の子として暮らせるように、わたしだけの精神が存在しているとは知らせずに法律という制度をつけ、公平に幸せに暮らせれるように、尚且つ他者に優しく人思いな人間として生きて欲しいと願ってくられたのではないかと考えました。けれど哲学を考えるととにかく病みます。分かりやすいように伝えたかったのですが結構説明端折りました。けれど奥深いものは好きです。想像して生きるって時に病むけど楽しいものです。何も考えていない人間は面白くないな〜と思ってしまいます。

でも何言えど幸せならなによりですね。

ママへ

 

親はわたしの育て方を失敗したと後悔しているはずだ…わたしだけ大学行かないし、看護師さんになる夢もやめた。勝手に家出てきてしまったし、迷惑しかかけてない。

血だらけになって外出て大騒ぎして救急車を呼ばれたこと後悔してる。あー、あの時死んでしまっていたら良かったのかなあ、って思います。その時悲しんだとしても、未来がないから心配することもこれ以上悲しませることも、憎しい気持ちとか生まれなくて良かったのでしょうか。

今、わたしのこと心配してる?気にかけてる?親の理想に添えなかった。悔しい。あなたが生まれてきてくれてよかった、わたし達の自慢できる子になってよかった、そう思われる子供になりたかった。ごめんなさい。ママもパパもわたしと違って素晴らしい人生を歩んできて、一人娘でやっと授かった子供がわたしだったのはさぞかし災難だったと思われます。違う子だったら良かったのに。

ママやパパは優しくて人を思える素晴らしい人間なので、きっと違う子じゃなくてわたしが良い、わたしではなきゃいけないと言ってくれるでしょう。でもどうでしょうか、最初からわたしの存在なんかなくて完璧で素直で問題も起こさず親を悲しませることの無い子供だったら。きっと子供に対してあまり苦労することもなく、ストレスも掛からず親自身の意志をもっと尊重することができたと思います。

ママやパパはわたしがいて幸せと言えたでしょうか。わたしはこんな事がありながら見捨てないで、親という責任を果たしてくれたことにとても感謝してます。そんなこと自分が産んだ娘なんだから当たり前!なんて思わないでください。当たり前だなんて普通だなんてこともないよ。ママはおじいちゃんのことで沢山苦労したのは少なからず知ってるけど、その考え方をやめてわたしに自由な選択をくれたのとても嬉しかった。わたしがママと上手く一緒に生活していくために沢山悩んで苦しんで考えてくれたのに、わたしは何もしないでただ迷惑だけかけて勝手に居なくなってしまった。ごめんなさい。

 

ごめんね

一生忘れられないのかな。わたしの悪かったところどこなのかな。全部だったのかな。苦しいのが続いて泣いて寝れない夜が毎日。なんで苦しいのかも忘れられないのかもわからない。わたし、家族が欲しいって願っただけだったけど、もう一生恋愛もできないのかな。どうしたら苦しみが癒えるの?どうやったら忘れられるの?冷静に自分と向き合った時、思ってた以上に傷が深くて涙が止まらなくなる。誰とも話したくない見たくない声も聞きたくない会いたくない。だけど心がとてもとても寂しくって虚しくて、またわたしは傷ついちゃうのかな。このままでいいのかな。頑張って頑張っても突然苦しさに追われる。できるなら誰かに泣きつきたい縋りたい。でもできない。もうわたし、死ぬしかないのかな。毎日生きてるために残っていく腕の傷も、もう消えない。

 


わたしは歌舞伎町に行った。色んな人達に出会った。自殺未遂をする人、前科のある人、中絶をした人、夜職を点々としてる人、援デリで毎日を繋ぎネカフェで生きてる人、DVに依存してる人、毎日のようにアル中で倒れて病院に運ばれる人。色んな人達に出会って気づいたことはみんな限界ギリギリだということ。限界の中でみんな生きてる。

 


もっともっと楽に生きたかった。ひとりで頑張りたくない。もう苦しくて泣きたくない。もうつらいこと、全て全てなくなってほしい。死んだらどうなるんだろう。こわいよ、こわいよ、。ひとりはやだ。さみしい。全て夢であってほしい。寝て起きたら今までの苦しみが全て消えて5歳のわたしに戻っていてほしい。できないなら、わたしの記憶を全て消してほしい。もう終わりだよ。これからどうしたらいいのかわからないよ。しんどい。なにも考えたくない、ずっとずっと笑顔でいたい。青春を楽しみたい。人生をやり直したい。人の温かさに触れたい。普段の何気ないご飯を美味しく感じたい。他人の良いところを素直に褒めたい。誰かと比較したくない。誰かを大切にしてみたい。誰かを信じたい。縋りたい。心が豊かになりたい。嬉しくて安心でいっぱいで泣きたい。将来の夢を持ちたい。死ぬことを選びたくない。生きたい。生きて幸せになりたい。

わたし、こんなはずじゃなかった。こんなに苦しむなんて覚悟して産まれてきたわけじゃないから、どうしても弱くなってしまう。強くなりきれなかった。親の理想像に少しも届かなかった。努力しきれなかった。こんな過去があってのうのうと生きてる自分も許せない。好きになれない。本当は自分をもっと大切にしてあげたいのだけど…。ごめんね。

 


なにもできなくてごめんね。

でも、わたしのことずっと覚えていてね

 


どうしようもできないくらい寂しくて寝れない夜は、温かいお布団にくるまってぬいぐるみを強く抱きしめて泣いちゃお。わたしが夢の中で逢いに行くから待っててね。夢の中では怖いことなんて何も無いよ。やるせなくてごめんね、

 


ずっとずっと変わらないね。

ひとりはさみしいね。